啓示について
自然宗教と啓示宗教
宗教には、人が神に介入する自然宗教と神が人に介入する啓示宗教があります。
キリスト教やイスラム教は、神の子イエスや預言者ムハンマドが神からの言葉を人に伝える啓示宗教と言えます。
叶鋼教も超自然的存在である黄金因果律からの啓示を元に教義を作成しているので啓示宗教の一種になります。
ただし、1点だけ従来の宗教とは違う点があります。
私はこの啓示を妄想として扱い、信者にも啓示を信じることを求めていないことです。
妄想としての啓示
私が超自然的存在からの啓示を自覚するようになったのは10年以上前の2010年頃からです。
従来の宗教ならば、これらの啓示を黄金の板に書き写して、教義の中心に据えるかもしれません。
ですが叶鋼教は、これらの啓示を大事にしません。ただの妄想として扱います。
イスラム教で預言の言葉を妄想と言えば、石打の刑に処されてしまうかもしれません。
ですが叶鋼教では、他ならぬ預言を与えられた私が、啓示を妄想とみなします。
何故なら、実存の証明が不可能な神秘を信仰の根本とすることを、私は好まないからです。
もしかすると啓示は本物なのかもしれませんが、それを証明する術はありません。
ならば啓示を妄想として扱うのが最も堅実な態度であると考えます。
そして、啓示が妄想であっても叶鋼教の根幹は揺らぎません。
叶鋼教において大事なのは、教義を守ることで現実に得られる救済です。
救済という実績が教義の正しさを証明するのであり、啓示が妄想か真実かは教義の正当性に関係ないと考えます。
啓示と教義
私は啓示を元にして教義を作成しました。
たとえ啓示が妄想であったとしても、妄想をきっかけに検討を重ねて構築した教義は現実の思考の産物です。
私は妄想かもしれない啓示を叶鋼教の土台にするのではなく、実存する思考の産物を叶鋼教の土台にしたく思います。
無信仰が信仰される現代において、根拠のない神秘を礎にする宗教を私自身が信用できないからです。