無信仰の哲学
量義治氏の「宗教哲学入門」(講談社学術文庫)の第八章「宗教批判の哲学」の要点をメモする。
フォイエルバッハ
フォイエルバッハは19世紀ドイツの哲学者であり、青年ヘーゲル派として有名である。
彼は信仰の時代は終わり、無信仰の時代が来たと唱えた。
フォイエルバッハの言う無信仰は、不信仰とは異なる。
不信仰は、神と神に対する信仰が存在することを常態として、それが欠如していることを意味する。
それに対して無信仰は初めから神と神への信仰も存在しないのを常態とする。
「人間とは異なる神の廃棄」という無神論が無信仰の哲学の根本である。
彼はキリスト教の三位一体を否定した。
三位一体は人間の社会的共同体に由来するとした。つまり三位一体は神に由来するのではなく、人間の実存が生み出した虚構に過ぎないとした。
また神の子イエスが人として生まれた「受肉」を神の愛、アガペーの証とすることも否定した。
人が人を愛する人間愛が実在であり、神の愛はその実在する人間愛が生み出した虚構に過ぎないとした。
神の本質などというものは、人間の本質から作られた虚構であるとした。
マルクス
マルクスは19世紀イギリスの思想家であり、言わずと知れたマルクス経済学を作り、共産主義国家の思想的基礎を作った人物である。
彼の「宗教はアヘンである」という宗教批判は有名である。
マルクスも人間が実在であり、宗教は虚構であるとした。
しかしマルクスとフォイエルバッハは人間の解釈が異なっていた。
フォイエルバッハはまず個人があり、その次に社会があるとした。
それに対してマルクスは社会があり、その次に個人があるとした。
フォイエルバッハの宗教批判の手段は、人間の研究、人間学であった。
マルクスが神の宗教批判の手段は、社会変革であった。
宗教が差別と抑圧を支えている。だから宗教批判とは、差別と抑圧のない社会を作り、人が人間性を回復することであるとした。
ニーチェ
彼の「神は死んだ」という言葉は有名である。
彼は超人が神に代わったと主張した。
神が死んだのは、はじめから神は生きていなかったからであり、生きる我々が神を殺したからであるとした。
神が真理であるとすれば、今は真理が存在しないことを信仰するニヒリズムの時代であるとした。
意味も目的もないことが永遠に繰り返される永劫回帰。
その永劫回帰を意志を以って受け入れることが、人間にとって価値あることだとした。
感想
フォイエルバッハの無神論は当時としては画期的であったのでしょうが、今となっては陳腐であると感じます。
革新的思想が普及することで、後世の人間からは凡庸と思われるという現象です。
マルクスの社会革命がことごとく失敗した現代から見れば、彼の宗教批判の手段としての社会革命にも致命的な欠陥があると感じます。
そういえば、中国のある若者が宗教や絶対者を信仰していない不安から、毛沢東を崇拝するようになったという話を聞いたことがあります。
人間社会から差別と抑圧をなくすのが実現不可能ならば、宗教は人間という実在にとっての必然であり、いかなる革命をもってしてもなくすことのできない実存に他ならないのではないでしょうか?
ニーチェは何を言っているか分からないので無視します。
ポストモダンは嫌いです。
ソーカル事件とそれに反論にならない反論をする哲学者の醜態に呆れて以来、ポストモダンこそが虚構であると理解しました。
ポストモダンの本を読むくらいなら、畳のしわを数えていた方がまだ有意義です。