「宗教哲学入門」第九章「宗教批判の批判の哲学」の感想
量義治氏の「宗教哲学入門」(講談社学術文庫)の第九章「宗教批判の批判の哲学」の感想をメモする。
総論
宗教批判の批判を一言で要約すれば「フォイエルバッハやマルクスは宗教を論ずる資格がない」になります。
フォイエルバッハのように神を虚構とみなしているならば、まさに宗教は論ずる価値のないものであり、この批判は彼らには無意味でありましょう。
この章の最後にまとめられているように、「(神が実在することも)フォイエルバッハの無神論もその哲学的探求の結果ではなく、前提なのである」というわけです。
有神論を前提にすれば、神の虚構を前提とした宗教批判は無意味です。
無神論を前提にすれば、宗教は無意味です。
「いずれにせよ、己自身で決断しなければならない。いずれかに賭けなければならない」のです。
批判内容の整理
例えば、カントは神の現存証明を不可能とし、実践的証明を可能とした。その証明の是非はともかく「証明」を試みた。
フォイエルバッハやマルクスは神の非存在証明をしようともしていない。
観念的に神はいないと主張しているだけである。
宗教を論ずるには宗教的意識を持っていないといけない。
フォイエルバッハとマルクスには、そんな宗教意識はないのだから宗教を論じる資格も能力もない。
彼らが論じているのは宗教ではない。
自分とは絶対他者との関係性を通して確立されるとすれば、フォイエルバッハもマルクスも絶対他者の存在を認めない点で間違えている。
「人間存在は神関係(人間と神の関係)と人関係(人間と人間の関係)の内にある」
「人間関係なしに神関係はなく、また、神関係なしに人間関係はない」
フォイエルバッハは人間とは異なる他者の存在を認めない人間絶対主義である。
だからフォイエルバッハは、絶対他者である神の愛(アガペー)を、人間の自己自身に対する愛と同一とみなした。
他者を肯定して自己を否定するアガペーを理解できなかった。
マルクスは他者との関係性を認めても、絶対他者は認めなかった。
その他
ニーチェへの批判もこの章では論じられています。
私はニーチェ、およびポストモダンを無視しているので、ポストモダンに対する批判も無視します。
(私の中に)存在しないものに対する批判を知る必要はないからです。
第八章「宗教批判の哲学」の感想は以下になります。