「宗教哲学入門」第十一章「救済の問題」の感想
量義治氏の「宗教哲学入門」(講談社学術文庫)の第十一章「救済の問題」の感想をメモする。
十章は続く3章の総括的なものなので感想は割愛させていただきます。
宗教とは絶対者による救済です。
では宗教における救済とは具体的にどのようなものなのか?
救済を実現する手段とは何か?
本章ではそれを論じています。
救済の分類
- 個人の救済と全人類(全宇宙)の救済
- 他力救済と自力救済と自力・他力救済
浄土教は念仏を唱えることで浄土に行ける他力救済
禅は自らの修行で悟りを開く自力救済
ユダヤ教やイスラム教は戒律を守る自力の信仰生活によって神に救われる自力・他力救済
自力救済と他力救済の長所と短所
他力救済は信仰を試される機会が少ないので信仰を維持するのには強力な意志力(もしくは思い込み、妄想)が必要になる。
その代わり、他力救済を信じられるならば、絶対的な救済を約束されて安寧を得る。
自力救済は信仰を実践している充足感から信仰を維持するのが容易い。
その代わり、絶対者による救済が得られない部分的な救済になる。
部分救済
キリスト教を信仰すれば、罪が許されることで苦から解放される。
しかし、これは魂のみの部分的な救済。
終末における新天地の到来により、肉体と全人類の救済が訪れる。
仏教における成仏は魂の成仏である。
禅における「見性成仏」は自己の内なる仏性を覚悟する悟りを開くことであるが、つまりこれも魂の救済である。
いずれも肉体の救済を含まない部分的な救済である。
完全な救済
完全な救済とは、個人の救済を超えた、全人類の救済、全宇宙の救済である。
キリスト教における完全な救済は天国である。
終末において神と人が共に暮らす新天地、すなわち天国が創造される。
仏教における完全な救済は浄土である。
法蔵菩薩の衆生救済の本願により浄土は作られる。つまり浄土はもともと在ったものではなく、建立されるものである。
「無量寿経」は上巻で浄土という救済を説く。下巻はこの浄土に行くための方法を説く。上巻の「救済する教え」が根本であり、下巻の「往生する教え」は上巻の救済があるからこそ意味を持つ。
浄土には「来世浄土」「浄仏国土」「常寂光土」の3つがある。
来世浄土は死後に行く世界である。
浄仏国土は現実世界に存在する理想郷である。
常寂光土は信仰によって穢土(えど)、信仰の無い凡夫の国が浄められて浄土となった世界である。
常寂光土は信仰を前提に成立するので個人の自力に由来する部分的な救済である。
キリスト教の新天地や来世浄土は、全人類、全宇宙の救済であり、完全な救済である。
この世に存在する苦しみに意義があるとしたら、苦からの救済がなくてはならない。
苦しみがあるから救済が必要とされ、救済があるから修練としての苦に意義がある。
キリスト教の他力救済
キリストが信仰するものを信じることで罪を許される。
私達の信仰により許されるのではなく、キリストの信仰を私達が信ずることで許されるのである。
よってキリスト教は他力救済である。
禅の自力救済
禅の見性成仏は、万人の中に仏としての本性があり、万人が悟りを得て仏になれるという「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょしつうぶしょう)」というものである。
その悟りは禅の修行により自力で獲得するものである。
よって禅は自力救済の教えである。
ユダヤ教とイスラム教の自力・他力救済
絶対者による救済を求める展でユダヤ教とイスラム教は他力救済である。
しかし救済されるのは自力で義務を果たしたものだけである。
その義務とは、ユダヤ教においては立法遵守、イスラム教においては六信五行の遵守である。
エラスムスとルターの議論
エラスムスとルターの「救済に向かうのは人の自由意志か否か」という議論があった。
神の恩恵と人間の意志の関係の問題である。
(これは「神が人間をどのように救済しているのか?」という神学論争だと私は解釈しました。私には全くの無意味な議論に思えます。)
著者の主張
現代の苦は昔の苦とは違う。
昔の苦は老い、病気、死などの命の危機であったが、現代特有の苦は空虚である。
空虚からの解放は絶対者による新天地の到来においてのみ成就される。
絶体絶命の世界の脱構築を成し遂げる絶対者による他力救済が必然である。
感想
最後の著者の主張は唐突過ぎると思いました。
現代特有の空虚の苦を強調して、生命の危機は大事ではないかのようです。
不況に苦しむ日本や韓国。格差拡大する欧米や中国の貧民の生活苦。中東やアフリカの終わりの見えない紛争。
命の危機に苦しむ人で溢れています。
現代でも命の危機が主なる苦でありましょう。
それゆえに今でも伝統宗教が強い影響力を持っていると考えます。
それはさておき、叶鋼教は天国は今は存在せず超自然的存在が構築するものとしています。
キリスト教の新天地や仏教の浄土も、これから創造されるものであるという点で一致しています。
自分で考えた宗教と伝統宗教に一致点があった時、この世に新しきことは何もなし、という思いを強くします。
叶鋼教の教義を上記の救済に当てはめて考えてみます。
個人の救済は黄金因果律による恩恵にあたり、全体の救済は超自然的存在が創造する天国にあたります。
個人の救済は信者の3つの義務を遂行することで得られる自力救済です。
天国は信仰の有無に関係なく全人類に与えられる他力救済になります。
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