私的宗教 叶鋼教

個人的な信仰生活の記録です

「宗教哲学入門」第十二章「絶対者の問題」の感想

量義治氏の「宗教哲学入門」(講談社学術文庫)の第十二章「絶対者の問題」の感想をメモする。

 

有的絶対者と無的絶対者

絶対者には有的絶対者と無的絶対者がある。

 

有的とは言語で定義できる言語的・対象的な神であり、無的とは言語で表現できない非言語的・非対象的な神である。

 

哲学者の論ずる神は有的絶対者である。

仏教の空や神秘主義のアハドは無的絶対者である。

キリスト教の三位一体は有的絶対者かつ無的絶対者である。

 

哲学者の神は死せる神である。

ここで言う死とは、主体的に動くことがないという意味である。

他に対して働きかけず、全てを自らに向けて動かす。

他者を救済しない神でもある。

 

 アブラハムの神は生ける神である。

ここで言う生とは、主体的に動くという意味である。

働くことがこの神の本質である。

生ける人格的な神である。

 

西田幾太郎は、神を絶対無なるが故に絶対の有とした。

神は絶対を自己否定続けることで無になる。しかし否定する主体としては有である。

無限に自己を否定する。同時に否定すべき自己を無限に創造する。

一なる有的絶対者ではなく、自己否定により多なる世界になる有的絶対者である。

 

三位一体は有的絶対者であるが、一なる絶対者が三つある矛盾を抱える。

そもそも存在するとは「ある空間に存在する」のと「ある時間に存在する」の2通りがある。

三位一体はどの場所にも存在しないという意味で絶対無である。

しかし絶対無という場所において存在するという意味で絶対有である。

 

ダマスコのヨハネは三位一体を相互相入説で説明した。

三位が相互に相手の中に存在することで一になる。

著者は相互相入説を、絶対者は常に一であるのと矛盾するので、ありえないとしている。

 

絶対者は絶対無であるゆえに絶対否定という審判を行う。

同時に絶対者は絶対有であるゆえにと絶対肯定という救済を行う。

 

感想

最後の救済の話は意味が分からないと思いました。

どうして絶対者が有だと救済を行い、絶対者が無だと審判を行わないといけないのか意味不明です。

絶対者が有か無であるか、絶対者が自己を否定するか創造するかと、絶対者が衆生を審判するか救済するかとは何の関係もないことです。

 

それはともかく、私は叶鋼教の黄金因果律は絶対無的な存在だと思っていましたが、人間に積極的に働きかけて目的の実現を目指すという点では絶対有的な存在なのかもしれません。

 

 

 

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